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「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」


魚灯の稽古以外ではあまり外出することもないせいか、なんとなく鬱々とした毎日を送っていて。梅雨になるといよいよダメになっていくな、なんとかせねばと思いつつ、また一日が経っていくという悪循環。そんなときに久しぶりに興奮し感動し刺激になるようなことと出会った。上の写真がそれに関係しているのだけど。
 最近はウィキペディア(Wikipedia)でよく調べものをしたり何気なしにいろんな項目を読んだりしているのだけれど、たまたまみつけたのが「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」という項目だった。
 権力や体制に対して、反対ばかりを声高に叫んでももはやなにも変わらない。むしろそういう運動や反対意見は「多様性」というキーワードをもって体制や権力に都合よく回収される運命にある。「なにをするにしても反対意見はありますから」で片づけられる現場をわたしたちは最近よく見かけているのではないか。そうやって片づけられるのはその反対する声明や運動が権力や体制を相対化しないからだ。Aに対する「反A」は自身の絶対性を主張する。「わたし(反A)こそが正しいのだと」声高に叫ぶ。けれどもそういう主張の対立は民主主義のもとでは多数決によって決着がつけられるので、いつも反Aは敗者になる。それどころか、反Aはその対決においてAを勝者にしてしまうので、つまり反Aが敗北することでAの正当性を保証することになってしまうのだ。ここにおいて反AとAは対立するどころか、実はコインの裏表の関係にあって、極端に言えば「共犯関係」にあると言える。
 だから自覚のある人は、体制や権力と対立するのではなく、それらを相対化することを考えた。「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」もそうである。キリスト教右派のID説を相対化するアイロニカル(皮肉)な言説だ。もっとも、パロディや皮肉あるいは「茶化す」という行為で、ある価値をひっくり返すということはごく一般的に行われているだろう。しかしこの「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」の特筆すべき点は、いわゆるパロディよりもさらに踏み込んで、体制・権力の内部で作用するように考えられているということであって、それはちょうど次の箇所の部分だ。

ID説の信奉者等は「何らかの知性」が「キリスト教の神」であると明言しない。空飛ぶスパゲッティ・モンスター教団はこの点も皮肉っていて、「『何らかの知性』は『スパゲッティ・モンスター』であり、ブッシュ大統領を始めとしたID説の信奉者は我等がスパゲッティ・モンスター教を学校教育に採り入れる為に戦ってくれている」と主張している。


 つまり、ID説は「何らかの知性」を「キリスト教の神」と明言しないことで他宗教の信仰の自由を侵さないわけだが、この点を「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」は見逃さなかったのだ。一般的な相対化(パロディ・皮肉・茶化し)は必要な時にそのつど発信されなければならず、発信者にはつねに相対化するエネルギーを必要とするが、このブッシュ大統領を始めとしたID説の信奉者は我等がスパゲッティ・モンスター教を学校教育に採り入れる為に戦ってくれているという仕掛けは、ID説が主張されると自動的に発生し、かつその相対化するエネルギーはID説から充填されることになる。キリスト教右派が声高にID説を叫べば叫ぶほど、そのID説自身の性格上「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」を布教することになっているからだ。このように体制や権力にいわば寄生するようにしてあるパロディや皮肉というのは一般的なそれよりも高次元なものと言えるだろう。
 体制や権力の絶対性にかかわる部分に寄生するような相対化の仕掛け。そしてとてつもなく馬鹿馬鹿しいアイデア。これを考える知性に感動したのだった。表現する者はその自身の創作において世界を切り取って相対化しそれを提示する。多くの作家はその提示する有効な方法を模索しているのだけれども、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」にその大きなヒントがあるように感じられたのだった。たとえば別役実さんの作品はそういうことなのだろうと思う。

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