1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28

今後の活動予定はホームページをご覧ください

下鴨車窓のホームページはこちら

大阪からは始発で帰った


魚灯の公演、終了しました。ご来場いただいたみなさんありがとうございました。
 打ち上げの一次会も終わる頃、尾方さんとつじさんは終電で京都へ帰っていったのだけど、山岡さんや魚灯のメンバー(武田さん、桝野さん)とはほとんど話もしていなかったので、まあいいやと終電を越してしまう。二次会はなんばグランド花月の向かいにあるお店へ。魚灯の三人に奈須さん、照明の葛西さんは入店と同時に寝てしまった。少人数でなにかと踏み込んだ話をした。夜中の二時くらいに解散になって、そのあと漫画喫茶で時間をつぶし、始発の電車で京都に帰る。始発の電車で家に帰るなんてどれだけ久しぶりのことだろう。上の写真には始発電車の車内から空が明るくなっていく大阪の空が見えるが、これは南海電車の和歌山行き。携帯電話で調べたところなんばから和歌山行きに乗って天下茶屋で降り、そこから地下鉄で淡路まで、そして阪急に乗るというルートが一番早く京都に帰れるというのだ。南海経由で京都に帰るなんてパソコン・携帯電話で調べない限り出てこないのではないか。とても感心してしまった。商店街の真ん中で「南海かよ」とつい口に出して言ってしまい周りに振り向かれてしまったのだった。

 本に書いてある一文字をじっと見て、たとえば「人」という漢字から「小さな女の子が上目遣いで自分を見ている姿」を想像して興奮する男、という役だった。それでこんな感じでと女の子のポーズを自分でやってみせる場面があるのだけど、たいていは客席から笑いがあって冗談というか、笑わせの場面であることになるのだけど、金曜の夜は違った。ちょっと全体的に客席が静かめで、その問題のシーンの時に客席から「キモっ」という声が漏れ聞こえたのだ。これはちょっともうショックで、それは「俺『キモっ』って言われた」というショックだ。役者としては成功だと周りは笑って言うけれど、確かにそうだが、すごく誤解されてはいないかと、なぜだか憂うつな気分。なにかこう、すごく率直な、嘘のない心のつぶやきだったから、あの「キモっ」は。つい出ちゃったんだな、それくらいのものだったのだ。

 そういうことはまあいいとして。あんまりよくないけど。役者をしながら、この作品をおもに劇作家の視線で横目に見ていたのは次のようなことだ。
 刑期を終えてもまだ矯正できていないと判断された性犯罪者が収容される施設でのお話だったが、作家の焦点は性犯罪そのものにはなかった。タイトルがそのことを示している。「善人の靴下」。その靴下とは収容されている男の一人が手に持つもののことだけど、犯罪者である彼がなぜ「善人」と言えるのか。「性犯罪者=悪(=カラスのイメージ)」という切り口だけでは見えてこない善悪という価値観の本質、たとえばそれは土曜日夜の対談では「わたしたち一般にある狂気性」という語り方で触れられていたのだけど、その善悪の価値観が、宗教や性のタブーが露見し聖と俗が浸食し合う状況のなかで相対化されていく。結局、男たちをカラスと罵る修道女(シスター)たちが、圧倒的な「善」であると思われ「聖」の象徴である彼女らが、真っ黒な衣装に身を包んでカラスの鳴き声を発するようになっていく。いわば「カラス化」していくシスターたちを見るうちに、彼女たちがカラスの仮面をかぶった聖女なのか聖女の仮面を被ったカラスなのか、分からなくなっていく。不吉・不幸・あるいは悪の象徴である「カラス」は男たちから女たちへと逆転していくのだ。ここにいたって山岡さんが対談で言っていた「もしも自分に近しい人が性犯罪の被害にあったならば、わたしは加害者を殺したいと思うだろう」という第三者に潜む狂気があぶり出される。性犯罪者への憎悪から彼らを「社会から追放されるべき」「死刑になって当然」という空気ができてくるのだが、「いいから殺せ、あいつらを」と言う当人の狂気に着目することで、わたしたちが生きる世界が狂気の連鎖によって成り立っている側面があるということ。そしてそれが不可避であること。これらのことを冷静に見つめたいというのがこの作品の目論見だったとわたしは解釈している。
 しかし確かにその目論見の実現はうまくいかなかった。特に性犯罪が新聞やテレビで大きく取り上げられ話題になっている今、まさにその「性犯罪」をひとつの切り口にして人間の狂気性に迫ろうとする試みはとても繊細に扱わなければならなくて、そうしないと観客や読者に誤解だけを生む可能性がとてもあって、それは当然山岡さんも役者も自覚していた。それは性犯罪が憎むべきものであり悪であることを十分にふまえたうえで、性犯罪が悪であるという善悪の価値観を相対化してみるという作業だ。性犯罪だけが悪ではないということ。それは「性犯罪は絶対に悪だ」という空気のなかで説得力をもたせるのはとてもとても難しい。脚本だけをとっても筆の進め方は簡単には想像がつかない。そして実際の脚本から舞台まで、その繊細な取り扱われ方は十分であったとは言えないのも事実だとわたしは思う。アンケートには性犯罪の被害にあった友人には絶対に見せられないというものもあったし、その対談の企画で客席からの質問があって、人間一般の狂気以前に性犯罪者たちの狂気の描かれ方が薄いのではという指摘もあった。これらはごく自然な反応だと思う。そしてこの作品のなにが問題でそれはどのように改善されればよかったのかをわたしは今明確に応えることができない。
 ただ、はっきりといえるのは山岡さんが性犯罪に関わる話を無邪気にやっちゃったということではないということ。相当の勇気と覚悟をもって臨んだということ。そのことについてわたしは憧れすら感じる。いまのわたしにそのような作業ができるのだろうかと。これは別に自分が出演したからというのではなく、実は正直、今までの魚灯の作品にはそれほど強く惹かれることはなかった。なにかを信仰することと日常生活の葛藤ということのいくつかの個別事例を見ているような、そんな印象だった。そこでも確かに善悪という価値観は問題になったけれども、舞台となるコミュニティがとても限定的で(たとえばあるカルト宗教の施設のなかかとか)、わたしは問題意識を共有することがなかなかできなかった。けれども今回は違うような気がしてならない。これからの山岡さんと魚灯の創作はとても困難で、けれども貴重な作業になっていくのだろうと思う。わたしはソウルに行ってしまうのでしばらくはそれを目撃することができないのだけど、次に見る機会がとても楽しみだ。
 戦う山岡さんを間近で見ることができた。わたし自身の脚本や演出を、あるいはその創作態度を見つめ直す良い機会になった。勉強になった。そんな有意義な公演だった。

noartnolifenewものかき
lovetheaterトラックバックピープル
>岩崎きえさん
 観た芝居の感想を言ったり文章で書いたりしないからといって無視してるとまでは言えないと思いますが、確かにことばにするのは難しいですよね。わたしはこういう場で文章を書いて人の目にさらすのも書くための訓練だと思ってやってるところもあります。
 作品を観た人同士や創った人ともいろいろ話をするうちに、作品への理解が変わったり深まったりすればそれはとても豊かだし、そうしたことのきっかけになるような文章が書けるようになれればと思います。それが自分自身の創作の刺激にもなりますし。
 いろいろと語れるということはそれだけ魚灯のあの作品に魅力があったということなんでしょうね。
田辺剛 | 2006/07/15 00:50
お・・・お恥ずかしい・・・馬鹿さ加減丸出しでしたよね・・・どちらかというと忘れてください。。

お礼を申し上げるのは実はわたしのほうなんです。
わたしは今まで、ただの山岡作品のファンで、魚灯のお客さんでしかあろうとしなかったんです。
だから、何本みても、観たかった芝居を観た様な満足感しか持とうとせず、それ以上に踏み込むのは・・・意識的にさけていました。
わたしは山岡さんがいつもとても苦しんで作品を生み出しているのを、魚灯のメンバーが全霊でそれを舞台に上げているのを知っているくせに、その作品について真剣に向き合うことは、こわくてしていなかったように思います。たとえ何かを感じても、その感想が間違っていてはいけないから、(意味が分からんですよね・・・)敢えて自分だけの中で片付けてしまっていた。
ある意味、どこかで魚灯の創作を無視してたわけですよね(これを魚灯のみんなが読んでたらゴメンナサイ;;とこの場をかりて謝ります)
でも、田辺さんのブログの文章を読んで、はじめて魚灯の舞台に関しての感想なるものを活字にするきっかけを頂いたし、なにより、その内容のストレートさにとても揺り動かされたのでした。
否定したくないからといってリアクションを持とうとしないなら、せっかく観る意味が無いじゃない!役者としてはもちろん演劇に携わる人間として結構失格だったな、って気づかせてもらいましたから。(活字にすると『何を今更・・・っ?!』と感じる事が多くて驚きますわ・・・;へ;)
これからも魚灯のファンであり続ける事に変わりはないけれど、それとはまた違ったポジションの自分でも、山岡作品に、魚灯に触れていけそうです。
ありがとうございました。

高松かー。行った事ないから遠いのか近いのかよくわからないのがネックではありますが、チャレンジしてみようかな(^^;)
岩崎きえ | 2006/07/14 03:19
>岩崎きえさん
 覚えてます。携帯電話と新幹線の、ですよね。岩崎さん。打ち上げでは男たちとのどうでもいい馬鹿騒ぎが邪魔してほとんどお話もできず残念でした。
 自分の演技についてはもうよく分からなくてですね。いいのか悪いのか面白いのか面白くないのか、稽古や本番の舞台もビデオに撮ってあるらしいんですけど、とても怖くて自分の姿を見ることができません。そんな感じなので、そう言っていただいて嬉しいのと恥ずかしいのとで、はい、ありがとうございます。知人友人には親戚の子が舞台に立つのを見るときのような気分だったと言われました。ハラハラドキドキだったらしいです。気にかけてもらえて幸せです。
 「文字男」は、最後にみんなで協力して性的倒錯を克服というか、乗り越えようと呼びかけるのですが、そういう思考を持っているということは確かにいちるの望みと言えるのかもしれませんね。児童への性犯罪が大きく取り上げられたとき、幼児性愛の欲があってそのことに悩んでいる男性がけっこういるのだという話を聞いたことがあります。そういう人たちをただ排除するのではなく、矯正というかそういうプログラムがあって一般に知られるといいのではと思います。もちろん犯罪へ至ってしまった者への罰というのは当然のことですが。
 脚本と演出としてのわたしの作品はあの演技からはだいぶ違うものだと思います。ただ、8月に高松でやるまちかど寸劇は誰にでも楽しんでもらえるような間口の広さを意識しているので、もしよろしければお越しください。大阪まで来るよりかはちょっと近いですか。よく分からないですけど、よろしければ。そして今度こそお話ししましょう。
 コメント、ありがとうございました。
 
田辺剛 | 2006/07/14 00:03
こんにちは。
多分覚えていらっしゃらないと思いますが、「善人の靴下」を観にいっていた者です。
魚灯のブログから田辺さんのトラックバックを拝見しまして。
えーと、感想を、と思ったので。
わたしは芝居を観るのがへたくそなのに加えてさらに自分でもうんざりするくらい頭が悪いので、普段はこういうことはしない(というより出来ない・・・)のです。特に相手が好きな劇団ともなると怖気づいてアンケートもかけない始末なので・・・。
わたしは田辺さんの演技はとても好きでした、ということをお伝えしたいなと思い、書き込ませてもらいました。
あ、調子に乗ってもう少し書いてもいいですか?
好きというか、あの芝居の中で唯一の救いだったなと感じたのです。
あの中で文字男はただ一人ちゃんと救われたいと思っていたから、きっとそれにシンクロしてしまったのかな。
一見救いはなすさんなんだけど、さびしすぎたのでわたしはそう感じられなかった・・・。
誰も彼も無関心で、自分の未来にさえ無関心な人たちの中で、文字男はきわめて人間らしくて、あ、そうそう、はじめすっごく嫌な奴だと思ったの(笑)そこも人間らしかった、うわー、こいつすごい嫌な奴だ!って。でもそのファーストインパクトは無駄じゃなくて、なんといいましょうか、マイナスから振った分プラスのふり幅が大きい?みたいな。。。
今考えると犯罪者のくせになんでいい奴なんだ?と思ってしまうくらい。
尾方さんの芝居はうますぎて、面白いを通り越しておそろしくて、最後くらいには「もうそれ以上しゃべらないでー」と思っていたほどでした。あの笑顔は狂気だ・・・おばかなわたしでもぞっとしました。
そのぶん文字男に入れ込んで観てしまいました。
客席からの声に相当ショックを受けてらしたのは打ち上げの席で聞きましたけれど(笑)わたしは文字男とてもかわいく思えました。
あの芝居の内容でこういう感想は不謹慎だと思われるも承知の上で。。。
そうさせていたのが山岡さんなのか田辺さんなのか未熟なわたしには到底わかり得ませんが・・・。
ほとんどお話も出来なくて残念でした。
そんなこんなで田辺さんの作品にも触れてみたいなとおもったので、機会があればこっそり観にいかせていただくかもしれません。
長くなってしまって、おまけに拙い文章ですみません。。。ご無礼のほどはお許しください
、失礼しました。
岩崎きえ。
岩崎きえ | 2006/07/13 19:40
COMMENT









TRACKBACK URL
http://blog.tana2yo.under.jp/trackback/415452
TRACKBACK