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本番を一週間後に控えて

写真は6月末のもので、ブログに掲載しようしようとしているうちに日が過ぎてしまった。最新の稽古場写真も改めて載せます。

それにしても京都の街は祇園祭で、いつもの稽古場である京都芸術センターもこの期間は閉館になっている。しかしあと一週間後に迫る公演初日を考えると、休んでいるわけにもいくまいと稽古場を別に借りて仕上げにかかっている。
再演の人魚は登場人物が初演に比べて一人増して、そうすると当然テキストも加筆しなければならないのだけれど、なんとか付け足した感じにならずに、『人魚』の世界の奥行を増すものになっているのではと思う。わたしの作品は「大人のおとぎ話」という言われ方をすることもあるけれど、今回はちょっとエログロいと言うかそういう表現もあって、18歳以下には刺激が強いかもしれないと自覚したのは奈良県の高校生を招待した後のことだった。

近畿大学で教える往復の電車の中で少しずつ読み進めていたのが鷲田清一氏の『「待つ」ということ』だ。同じく鷲田氏に『「聴く」ことの力‐臨床哲学試論』という著作があって、この二つは「聴く」から「待つ」に向けてつながった著作だ。鷲田氏の独特の文体は、時にまどろっこしく、回り込みながらその議論の対象と近づいたり離れたりしていて、ようはすぐには理解できないということなのだが、久しぶりに愛読書と呼べる書物に出会った。わたしの想像と思考を促すことばに満ちている。

<以下、引用>
そもそもひとが待つのは、待つ者と待たれる者とのかかわりがすでに壊れてしまったからである。心持が現在のままでは相手に届かず、差出人に《名宛人不明》として差し戻されるからこそ、ひとは待つしかないのである。あるいは、はっきりと宛名を書いた手紙がたしかに届いても開封されないまま放置されたからこそ、ひとは待つのである。宛先のない<待つ>、それを待ちつづけることとして保つものは何か。「《名宛人不明》の付箋」がついて戻ってくる祈りが、それでも「祈り」でありつづけるのは何に拠るのか。じぶんの祈りが届くその相手に向かって祈るのでもなければ、聴く者もなくただ真空のなかで呻くように語るのでもないような「祈り」というものがあって、それこそが<待つ>をただの感覚麻痺には尽きぬものにしているとするならば、その「祈り」のなかで起こることとはいったい何か。『「待つ」ということ』130p
<以上、引用>



思えば、『人魚』の登場人物たちもそれぞれが何かを待っている。たとえば人魚は海に帰る時を、たとえば兄弟たちは人魚が家を出ていく時を。ちなみに『漂着』も「待つ」ことを強く意識した作品だった。

こんな本の刺激も受けながら、今回の『人魚』は濃密さを増していっている。あと一週間のうちで、もっとその先を目指したいと思う。

下鴨車窓#8『人魚』総合案内(あらすじなど)→
日時・会場・予約:伊丹公演→/福岡公演→/広島公演→

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