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『月の岬』公演パンフレット掲載のごあいさつ
10月はじめに近畿大学の授業発表公演でパンフレットに掲載した文章です。来年1月の『小町風伝』も迫ってきまして、都合の良い話で恐縮ですが、またブログも書いていこうと思います。
<以下、文章>

 わたしが望まなくてもやって来るものがある。わたしがどんなに願っても去っていくものもある。
 対話を重ねることでわたしたちはお互いの意志を確認して、うまく折り合いをつけ関係を持続することがだいたいではある。例えば家族の一人が遠くへ去ろうというときに、去る者は、残す家族になにかしらのことばを重ねて理解を得ようとするだろう。なぜわたしは故郷を離れて遠くにある土地へ行こうと思ったのかと。残される者は、そのことばで了解することもあれば、納得できずに去る者を引きとどめることもあるはずだ。望まない来訪についてもそう。対話を重ねることで関わりを持たずに済むこともできるだろう。どちらにしろ、そこで対話が重ねられれば両者の関係 (関わりが無いという関係も含めて)は持続して、次の展開を待つということも可能になる。
 しかし、ことばが交わされることなく、相手の有無を言わさずに、行動されることがあるとすればそれはどうか。例えば、家族の一人が去ることを一言も告げずにある日不意に姿を消したならば。昨日も今日も明日も同じように続くと思い込んでいた関係が急に止まってしまい、周囲の時間は進んでいくのに、その関係だけが過去に取り残されてしまう。残された者は、その関係が再び日常の時間に戻るように努力するだろうが(つまりは失踪者を探し回るだろうが)、手掛かりさえ見つからなければ諦めるか、不意の帰還を待つしかなくなる。急に停止した関係は、長い時間がかかればかかるほどに、日常の背景になっていくだろう。普段は意識することもなくなるかもしれない。けれどもふとした時にその失踪者の不在が、残された者たちをあの時、姿を消した時間に連れ戻すことがある。残された者はふさがれた穴がまた裂けてしまったのを見て眩暈を感じて、自分の世界がほころんだままであることを思い出す。けれども残された者も生きていかなければならない。失踪した者だってどこかで生きているのだろう、海の向こうで。だから残された者はほころんだ自分の世界を背負い、海のこちら側で、いま為すべきことに戻るだろう。
 そのように対話の及ばない、わたしたちの生活にある「ほころび」だ。それはごくまれな例外だと思いがちだけれど、よくよく考えてみれば自分の生活のあちこちにあって、普段は忘れてしまっているだけのことのようだ。むしろそのほころびを取り繕うために、わたしたちは何かを考えたりことばを発したりしているのではないかとふと思い当たる。『月の岬』を何度も読んでそういうことも考えた。
 本日はご来場ありがとうございました。ごゆっくりお楽しみください。

2011年10月2日
演出 田辺剛

<以上、文章>

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